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10/20代議員会報告①総括

はじめに

 京大は2012年の同学会再建以来最大の波乱を迎えている。立て看板規制、吉田寮廃寮攻撃、NF規制、そして何より度重なる学生の不当処分と、攻撃が乱発されている。転機はやはり、15年のバリケードストライキが生んだ新たな決起と反動であろう。もちろん、それ以前に同学会が主要なテーマとして取り組んでいたカリキュラム強化なども、一層厳しい管理・分断となっている。
 同学会執行部は一貫して、京大当局による管理強化が04年の国立大学法人化を最大の転機とする大学改革の結果であり、自治・学問の復権が国家意思との闘いになるということを暴いてきた。同時に、「大学の生き残りのために人材工場化は仕方ない」とか、「学生の側が就職予備校としての大学を求めているのだから、自治会がそれに反対するのは筋違いだ」といった屈服の論理に対し、団結して競争社会を変えようと訴えてきた。
 今、日本の学生自治殲滅攻撃は京大に焦点を当て、弾圧は「過激派排除」の域を明らかに超えている。同学会と共闘関係にある全学連は今年の大会で、全国的に京大闘争に注力する方針を確認した。本代議員会で、京大闘争の社会的意義と原則的路線で一致し、多彩な方針を出し合って運動の爆発への大きな弾みをつけよう。

※同学会規約上、代議員会は「毎期2回以上」開催しなければならない。また、規約上は必要ないが、例年は夏の代議員会に先立って「中央執行委員会予備選挙」を実施している。しかし、大弾圧のあった昨年10月以降、いずれも実施できていない。
自治会の正統性・民主性を担保するために、これらの業務をおろそかにしてはならないのは言うまでもない。そのうえで、起訴・勾留された4学友の奪還闘争に力量を割かれる中、中途半端に形だけの「会議」「選挙」を強行しても意味がないという判断だった。しかし、特に代議員会について言えば、大変な時期こそ会議を重視しなければ、運動のマンネリ化・停滞を招いてしまう。4学友が全員保釈された今、満を持して代議員会を開催し、来る京大総力戦に備えることができることの重要性を確認しよう。

総括

(0)同学会運動が作ってきた情勢

 京大全学自治会同学会は2012年の再建以降、松本紘総長体制打倒の総長選挙廃止阻止闘争(13-14年)、安保法制反対・大学の戦争協阻止を掲げたバリケードストライキ(15年)、同学会の最先頭で闘ってきた学生の処分阻止・撤回闘争(16年~)等をやり抜いてきた。これまでの同学会運動の成果は、何よりも京大の情勢を作ってきたことにある。
 まず、同学会執行部は学内の政治的暴露を行ってきた。松本総長打倒後、学内外でリベラルとみなされる山極壽一総長の誕生を歓迎する声が大きかったが、執行部は反戦バリストや無期停学処分撤回・総長自宅前デモ(16年)など、学内外に大きな分岐を生みつつ徹底して山極体制の欺瞞を追及してきた。米軍マネー受け取り問題の発覚(17年)や戦前の帝国大学を彷彿させる学生弾圧は、「大学の戦争協力を阻止して、大学を反戦の砦へ」という執行部の主張が決して間違ったものではなかったことを浮き彫りにした。17年末からは立て看板規制や自治寮潰し、学祭規制も始まり、山極壽一・川添信介学生担当副学長を中心とする役員会の体制を賞賛する声は聞かれなくなっている。
 執行部は、あらゆる学内の運動のなかで先鋭的に闘ってきた。同学会の主催する集会は、常に職員による弾圧に晒され、弾圧の凶暴さも回を追うごとに増していった。それでも執行部は、不屈に集会弾圧と闘い続け、ときとして当局を圧倒する大衆的反撃もあった。あくまで集会で学生の前に登場することにこだわり続け、弾圧や処分などの一切の矛盾を引き受けてきた。
 このような、政治的暴露と前衛的な闘いがあったからこそ、大学当局による学生への抑圧が顕在化され、京大における学生の反抗の機運は高まっていったといえる。そして一切の矛盾を引き受ける存在があったからこそ、その影で弾圧を受けずに幅広く学生が運動を展開する余地が生まれ、反抗の機運は実際に大衆的な運動に結実したといえるだろう。そのような点から、今の京大学生運動の爆発は同学会なしにはありえなかった。これが、同学会が京大の情勢を切り拓いてきたということである。

(1)新次元の処分攻防の到来

 京大当局は9月10日、3学生に無期停学処分を下した。いずれも、学生を弾圧する職員に対して抗議をしたことが処分理由となっており、常軌を逸している。これまでにも当局は、職員の暴行に抵抗したことを「学生による暴行」に仕立て上げるなどしていたが、今回はそういったことすらなく、職員の言動に異を唱えたことが処分の理由となっている。処分後の面談で「運動をやめろ」と言われたことからもわかるように、当局は思想・言論の自由を奪う狙いを隠そうともしていない。
 その直後には、1学生に処分に向けた審査の通知が届いた。「確認」された「行為・言動」は、入試期間中のキャンパスに創作物を展示し、撤去命令に「直ちに従わなかった」ことや「大声」を発したことである。これらの「行為・言動」が取り沙汰されるのは、ほとんどの学生にとって信じがたい事態だと言っていいだろう。役員会としてはこれらが入試業務を妨害したとでも言いたいようだが、それは当時の受験生だけでなく入試の現場にいた教員さえ否定している。この処分を許せば、当局は「タテカンフェス」のような有志イベントや寮自治会の入寮パンフ配布なども完全に鎮圧できるようになる。
 昨年、東洋大で立て看板を出した学生が退学処分を示唆された件や、今年になって沖縄大学生自治会の赤嶺知晃委員長が訓告処分を受けた件も同じように、大学で何か行動を起こせばすぐに処分されるという情勢が全国的に訪れようとしている。これらの処分事例の特徴は、処分が目的化し、学生をビデオで撮影し都合よく切り取って、悪いことをしているように仕立て上げるという点にある。
 2017年(4学生放学処分の前)、「京都大学学生懲戒規程」が改定された。これは後述する大学改革の流れの中で、「懲戒処分」そのもののあり方が変化していることの象徴である。教授会自治が崩壊して本部のガバナンスが強化されたことによって、処分を決する機関が各学部の教授会ではなく、本部役員会になっている。そして役員会の独断の判断基準となるのは、「学生の更生・指導」ではなく「大学経営の利害関係」である。したがって、処分の対象になるのは大学経営にとって邪魔な学生であり、少しでも大学にとって不都合な動きを見せれば役員会の独断で学生を処分するというのが、この間の懲戒処分の特徴である。そうであるがゆえに、処分との闘いは大学改革と、その中で独裁権を握る役員会との直接対決としての性質を帯びてくる。

(2)大学と警察権力一体の逮捕弾圧

 昨年10月から今年5月にかけて、同学会執行委員2名と首都圏から応援にかけつけていた2学友が、京大でのビラまきを「建造物侵入」として逮捕され、全員が起訴されている。期を同じくして全国の大学で起きた弾圧とも一体の京大弾圧は、昨年から立て看板運動を中心として京大学生運動が爆発していることに権力が恐怖し、大学で運動が拡大することを何としても阻止しようとして行われている。
 起訴された学生の裁判の過程で、京大当局と警察権力が結託して学生を弾圧していたことが明らかになってきている。まさに国家権力と大学当局とが一体で、京大学生運動を潰しに来ているのだ。裁判には幅広い学生・市民が結集し、明らかになっていく悪辣な事実の数々に、法廷は怒りの声で満ち溢れている。
 2017年10月、当局は4学生を含む12名を「立ち入り禁止」にした。2004年の国立大学法人化によって、国立大学の敷地は総長が施設管理権をもつ私有地と「法律」的には変わらなくなってしまった。今回の逮捕弾圧のみならず、立て看板規制などの京大における様々な弾圧の根拠になっているのは、この「施設管理権」である。法人化後の国立大学の中で運動を展開するには、法を超えた視点が不可避となる。

(3)自治の根絶を狙った学祭規制

 今年6月、当局は11月祭(NF)全学実行委員会(全学実)に対し、「教室使用状況の悪化」を理由に夜間泊り込みの禁止と事実上の日程短縮を、「飲酒状況の悪化」を理由に全面禁酒を打診してきた。打診を飲まなければ、教室などの貸し出しをしないという脅しもかけており、事実上の強要であった。
 一見、当局には直接害のないように思える学祭に対して、学生に反発されるリスクを負ってまで規制を入れようとする当局の思惑は何であろうか。第一に、授業をより重視し、学生を一層厳格に管理する狙いである。第二に、学生の「自主的活動」や自己管理能力を否定し、学内のあらゆる自治空間・団結体を破壊する狙いである。
 しかし、NFにおける自主管理の不徹底、自治意識の低下が、全学実として全面禁酒を呑むことにつながった。運営が事務局まかせになっている今のNFのあり方は、全参加者の自主管理のもとで行われる学祭という理念に反している。当局の規制を許してしまったことを逆てこにして、自治・自主管理の重要性を学生に訴えていく機会が来ているのではないだろうか。
 一方で、日程短縮に対しては、同学会執行部ほか意識的な学生の情宣の甲斐もあり、大学当局は今年については撤回した。多くの学生が声を上げれば、学内の規制強化の流れに変化を与えうるということが示されたのだ。一旦の規制撤回によって反乱は沈静化しつつあるが、当局は来年の規制貫徹を狙って準備を進めているはずだ。当局の狙いを明らかにして、まだまだ声を上げ続けようという宣伝をどれほどできるかが問われている。

(4)対話を拒否しての吉田寮つぶし

 吉田寮は2017年12月、大学当局から一方的に在寮期限を設定された。そして当局は19年4月26日、吉田寮生20名を相手取り立ち退きを求めて訴訟を起こした。今春から女子寮の入退寮選考権を剥奪したことからもわかるように、当局は京大の自治寮の管理寮化・廃寮化を推し進めている。これは第一に、学生自治を一掃する一環として、生活と自治が密着した形態で運営されている自治寮をなくそうとするものである。第二に、京大学生運動を壊滅させる攻撃として、京大学生運動の最大の出撃拠点となっている自治寮をなくそうとするものである。第三に、福利厚生施設としての学寮の務めを放棄し、受益者負担を掲げて「赤字解消」さらには「金儲け」を狙うものである(女子寮の寄宿料も跳ね上がった)。
 ここで、司法権力を持ち込むことの不当性・暴力性について確認したい。そもそも「法の支配」は、強者から弱者を守るために「人の支配」に対置された理念である。しかし今回の訴訟は、寮生側が「スラップ訴訟」と批判する通り、強者の側が「法」を逆手に取って吉田寮をつぶそうとするものであり、この一点にも「大学」法人が理性と言論の府でないことが表れている。これに対して学生の側には、学内の問題は学内の対話で解決するよう、当局に強制できる力をもつことが求められている。